僕は死ぬように生きていたくはない

自分のこと。音楽のこと。保育のこと。タスク管理のことetc.

しあわせとしわよせ。幸せかどうかはシーツの張り方次第なのかもしれないという話。

しあわせとしわよせ。
ちょっと似てる言葉だと思った。

だからというわけじゃないけど、
幸せにはしわ寄せがつきものなのではないか思いついた。
そんなことからいろいろ思いをめぐらせて辿り着いた話。

それは、

もしも、人生が一枚のシーツみたいなものだとしたら、
人と人は互いにシーツの端っこを持ち合ってシーツを広げているようなものなのではないかということ。

幸せだと思える時ってのは、しわの無いキレイなところが見えているような状態。
自分や周囲の人達が、しわの無いようにきれいに布を張りあって保っている状態。
ピンと張られたシーツは、見ていても気持ちいいし、そこにはやっぱり幸せがあるのだと思う。

でもその一方で、キレイに貼られたシーツの端っこのどこかには必ずシワが寄っていて、不細工な状態になっているはず。
そんな、“しわよせ”されたシーツの端っこを人は不幸だと感じるんだと思う。
自分のもとにシワが多ければ、それは自分が不幸だと感じていることになるのだと思う。
(でも、実際は自分の手元だけがよく見えるから、誰のところに一番シワが寄っているかなんて分かりえないのだけれど。。。)

分かりにくい例えだったけれど、
ようは、幸せと不幸せは人間関係の間でひとつながりになっていて、
他者と自分でつくりあげるもだということ。
そして、自分の加減で幸せにも不幸せになれるし、自分の見方(感じ方)次第でも幸せにも不幸せにもなれるのかもしれないということ。

そんなことだをふと思ったという話。

もしも、目の前に死にたいと言う人がいたら。

もしも、目の前に死にたいと言う人がいたら。

「分かるよ。」

なんて、軽々しく言っちゃいけないと思う。
誰かに分かられるような思いなら死にたいと思わないだろうし、
分からない、分かってもらえない思いが死にたいと思わせているのだろうから。
相手の気持ちを分かってあげられない無力さは忘れてはいけないと思う。


もしも、目の前に死にたいと言う人がいたら。

「全然分からないよ。」

なんて、簡単に言っちゃいけないと思う。
死にたいと思いを口にするからには、分かってもらいたいという思いががあるはずだし、分かってくれるかもしれないという微かな希望を抱いているはずだから。
相手の気持ちを分かろうとする努力は忘れてはいけないと思う。


もしも目の前に、死にたいと言う人がいたら。

自分はきっと、何も言えず、相手の目をみて、頷くぐらいしかできないと思う。
きっと、あの頃死にたいと思っていた自分と、相手の思いは全然違うだろうし、あの頃の自分より、相手は辛く苦しい状況なんだと思うから。
自分が相手にかけられる言葉なんて無いんだと思う。

普通の人って。

特別な人になりたかった20代。

特別なことなんか自分にはなんにもないと気づき始めた30代。
どうにかしようとしても、どうにもならない現実。

幸せは自分の心が決める。

その意味の深さを思い知る今日このごろ。
不幸を背負うどうかも自分次第だってことを思い知る。

普通ってなんだろう。

特別じゃない自分は果たして、普通であるのか否か。

普通ってなんですか?

誰が教えてくれるの。
誰が普通を決めてくれるの。
幸せを自分の心で決めなきゃいけないみたいに、
普通もまた自分で決めなきゃいけないのか。

めんどくさい。
色々めんどくさい。

生きるってややこしい。
いや違う。
生きてる自分がややこしいだけか。

無駄なことは何もない。

無駄なことは何もない。

それはやっぱり成功した人の言葉。
成功するまでやり続けたエラい人の言葉。

無駄にしか目を向けられない人には成功はない。
失敗ばかりで無駄がどんどん増えていく。

結局は成功した人へのただの妬み。
成功した人は次のステージに進んでいく。
成功も失敗もできないな自分はいつまでも同じ場所。

無駄足を踏んで、疲れてるだけ。

本質ってなに?

最近、職場の上司に本質について話をよくされる。

本質ってなんなの。

本質を理解してないから仕事ができないとか、
本質を考えないから場当たり的な保育になるだとか。

でもその話の中にでてくる本質は誰のためのものなのか。
ちょっと疑問が残る。

園のため?
建前?
保護者のため?

本当は子どものためだよね。
そうじゃなきゃいけないのに。

本質って言えばなでもいいわけじゃないでしょう。

本質という言葉のせいで、
保育士として、
人としての本質が見えなくなってきてる。

自分のみようとしているものが、
本当に本質なんだろうか。

信じてきたものも疑わしくなってきてる。

もうホント、モヤモヤする。

空っぽの空。

立ち止まってる。
夢なんてみてない。
なんにもない空をみてる。

このままこのままが続けばいい。
それだけが望み。
前に進みたいと思えない。

明日なんかなくていい。
死んでやる。
そんなことをふと考えてみる。
でもそんなこと絶対できやしないし、
明日はどうせやってくる。
そう考えてどこかでホッとしている。

本気になれるものがない。
本気でそう思ってるわけじゃない。
それすら中途半端。
中途半端に慣れすぎて、
完璧なんて絶対に有り得ない。
確信してる。そこに半端はない。

思考停止。それが救い。
思考停止したい。

ネガティブとポジティブ。
どっちが本当の自分。
その質問本当に飽きた。
どっちなら納得するの。

眠りから冷めて、
これが全部夢だったら。
夢だったら。
救われるのに。
現実は何も救ってくれない。

立ち止まってる
夢なんてみてない。
なんにもない空をみてる。

大きめな器が欲しい。

自分の器は小さいと思う。

誰かの度量の広さを見て、

(それに比べてどうせ自分は・・・。)

そう思って卑屈になっている時点で器の大きさなんてたかが知れいている。
小さい器。その中に入っている(と思われる)ものを大事に、大事にしている。

問題なのは器の中身が見えないことだ。

あるのかもわからない。

もしも中身を覗いて見た時に、空っぽだったら・・・
その後の自分は平静を保てる気がしない。

大きめな器が欲しい。

はじめはそう思ったけれど、

問題は器よりも中身なのかもね。


我ながら中身のない話だ。